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2000年10月後半日記

10月30日 月曜日
ラベンダーとクロモジの葉高い山に雪の便りが聞かれるようになると、紅葉もいよいよ里山におりてくる。綾錦と言っても裏山はそれ程雄大ではないし、かといって京都のような優美さもない。所々植林された針葉樹とのコントラストが欲目でパッチワークに見える、素朴な山々。

それでも、真っ先に紅葉した朱色の蔦が褪せはじめると、色々な雑木が賑やかに色付いて、手触りも暖かなツイードのようだ。こんな、人の手の入っていない自然の色調に慣れていたので、昨年、少し早かったが京都の山の紅葉を見た時は、自然を見ていると言うより、庭を見ている感じだった。繊細なもみじの赤が多いせいか。

雑木の黄色く色付いたのが、多いか少ないかでずいぶん山の印象が変わる。黄色と言えば唐松の紅葉も美しい。抜けるような青空に山吹色というか金色と言うか、縁まできりっと、目の覚めるよう。唐松は芽吹きの頃もそれは見事、分かるか分からないかの緑のベールが裸の幹に見え始めると、ドキドキしてしまう。やっぱり、ブナの原生林とともに庭に欲しい唐松林・・・・。願えば叶うとは言うが、無理とわかった願いを持つのはオバカサン、でもそれは夢、ひとくくりにして棚に上げて、庭を見つめる。

紫の花には黄色が合う。補色同士で難しいが大人っぽくてすてき。イングリッシュガーデンに良く見る組み合わせ、と言うだけで素人ガーデナーはふらふらっと来るが、残念な事にわが庭には黄色の花が少ない(ほとんどない)。夏場には涼しげだった青紫の花が、秋には寂しく素っ気なかった。ところが、この頃少し庭の雰囲気が変わってきた。色彩の凹凸がはっきりして温か味もある。そうだ、黄色の花はないけれど、葉っぱが黄変してきたからだ。クロモジ、ギボウシ、クロコスミア、山吹などが色付いて、トリカブト、名残のラベンダーやレースラベンダー、パープルセージなどの紫と響き交わしている。庭に白いものが舞うまで、少しでも色彩を丁寧に味わいたいと思った。(写真はクロモジの葉とラベンダー)
10月28日 土曜日
テラスから覗いて「ちゃんと3年分若いなぁ。」そんな嫌味より「ほーら、こっちの方がいいじゃない。」思わず口をついて出た素直な感想にショックを受けた。いや、そうではない、咄嗟に反論できなかった私、むしろ「そうね。」と答えてしまいそうだった自分の感覚がショックだった。

必要があって、ビデオカメラを点検していて、入れっぱなしのテープを見つけた。息子がいたずらで撮った3年前の家族と庭の様子が映し出された。石畳の横に緑の芝生、花壇が控えめに小道の横に作られている。そのバランスがすっきりと庭は今より広く見えた。

より良くしようと知恵を絞ってきた。色のバランスも考えた。暖色の強い色調や大きな花は庭を狭く見せるので避けてきた。草丈も考えて植えた。いったん植えたものの、周りとのバランスを考えて、泣く泣く抜いて里子に出したものもある。

ありったけの装飾品を身にまとうような趣味はない。部屋もさっぱりと片付いている方がいい。こってりと脂ぎった料理より薄味のお吸い物がいい。好物は?と聞かれて「お麩です。」と答えると、たいがいの人に笑われる。なのに庭だけはイングリッシュガーデンに心酔して、ひたすらプラス志向で植え込んでいる。

あのバランスがいいのはわかっている。庭の広さが、せめて、今の倍あれば、だ。それが叶わなければ、庭全体が寄せ植えコンテナになっても仕方がない。きっと心がぐらついたのは、小さな画面に映った映像だからだ。来年の初夏に庭をビデオに撮って見比べて、その時、本当の勝負だ。それでも以前のほうがよいと言ったら、相棒に2台分の車庫を庭に返還する事を、本腰を入れて交渉しよう。(写真はテラスから見た庭の一画)
10月26日 木曜日
風知草それほど寒くないのに、外にいられないのは風の強さのため。昨夜は強い雨音に起こされた、今朝、雨は上がって風が唸っている。電線が歌うと木枯らしの音だと思う。

電線にはここ数日ツグミが並んでとまっていた。遅れてくる仲間を待つかのように、昨日は皆で南をじっと見つめていた。集団で渡って来ても、冬はばらばらに過ごすらしい。真冬にこの鳥が大勢でいるのは見たことがない。自由行動に移る前にここで集合、休憩?まさか簡閲点呼でもするのか。春になったら、またちゃんと集まって旅立つところが、私から見ればまさに超能力だ。鳥だから当然、鳥能力か・・・なんちゃって。

広くもない庭いっぱい散らかった木の葉に、遅れ気味の庭仕事をせかされるようだ。それにしても、いい色の落ち葉だ。木にあるときは夕焼けを閉じ込めたようだった。土に返る前、燃えあとのほのかな暖かさのこの色は、昔、コタツで懸命に剥いた焼き栗を思い出させる。

昨日おけいこに来た子が、爪の中を真っ黒にしてきた。「学校でヤキイモしたの」夕方そろそろお腹の空いてきた私を、羨ましがらせた。私の「いいなぁ」があまりにも情感たっぷりだったのか、やってごらんと、おいしい焼き方を教えてくれた。枯れ枝と枯葉はあらかじめ燃やして、それらが黒くなったところへお芋を入れて、蒸し焼きにする、すると焦げずにおいしくできる。間違ってもお芋と枯葉を一緒に燃やさない事、黒焦げ芋になってしまう。どうやら、そんな苦い経験もあるらしく、しきりに今年は良かった今年は良かったと繰り返していた。

相棒にその話をすると、そんな事は当たり前、誰だって知っている、と言う。そうだったか、でも、空に昇る煙が全て疑いの目で見られる世の中では、当たり前の知恵も先細りの煙のように、いつか薄れていくかもしれない。(写真は秋色を帯びたフウチソウ)
10月24日 火曜日
紅葉したシャラの葉秋がなぜ密やかなのか、それは弾丸をつめている季節だからだ。爆弾を仕掛けたり、火薬を仕込んだり、そんな時は誰も大騒ぎしない。できるだけこっそりするに決まっている。長いこと私はそれに気付かず、枯草や萎れた花の色に惑わされて、庭はこれで死んでしまうように錯覚して、自分の寂しさを庭にも押し付けていた。

確かに北国の冬は鬱陶しい。何日も太陽が隠れて雪ばかり降れば、いよいようんざりして雪片付けに追われるばかり。或いは暖かな部屋に持ち込んだ、南国生まれの草たちと行きずりの恋を真似する。しかし所詮かりそめ、お互い反りがあわなかったね、うそぶく頃、鉢土にうっすらカビが生える、茎が煮すぎた昆布になる。

今年は浮気しないで、雪の羽根布団の下でじっと戦闘開始の合図を待つ植物の事だけ思って冬を過ごそうと思う。きっと過ごせる。過ごせるんじゃないかな。過ごせるかもしれない。あ?なんだか昔の何とか宣言の歌みたいになってしまった。

土も石も枝も葉も水分をたっぷり含んで重たく落ち着き、朝日が仕上げの彩りを施して、雨あがりの秋の庭は素晴らしく美しい。新芽を見届けたシャラの葉(左写真)はうれしくて、のぼせて赤くなっている。いつまでも一緒にいるのは、あなたたちの為にならないのよ、見上げた親心で落ちていく。柏はちょっと過保護なので、春まで木にくっ付いて新しい葉を心配するが。ツワブキの蕾と右は大文字草

それから、秋は、ある植物にとっては春だったりする。眠りから覚めてようやく本来の姿をあらわす者もいる。リュウノヒゲは夏中青々する芝生の横で、いっそ枯れてしまいたいと、げっそりしていたが、今は艶々の葉を光らせて、株を太らせて、もっと冷気を!と叫んでいる。クリスマスローズもこれからが根を広げ、葉を茂らす季節。ツワブキ(右写真)が蕾を持ち上げた。菊が咲きたくってしょうがない。サフランがこれから咲きますよーと細い葉で合図する。それでも4月の春に比べたらなんとおとなしい事だろう。準備に余念のない植物たちの邪魔をしないように、か。

導火線に火がついてからが長いので、準備を終えると植物は少しだけ眠るが、怖いのは真冬の雪や寒さではない。本当に用心しなくてはいけないのは、春先にある。
10月21日 土曜日
気になっていたので、雨あがりを待って庭に出た。ホトトギスと台湾ホトトギス。図鑑で見たらホトトギスは白地に紫の点々。鳥のホトトギスの模様に似ているところから付いた名前と記憶しているが、鳥の図鑑はないのでわからない。

ここへ引っ越した当時に「庭に植えるものがないんです。」と言ったら、「増えすぎて困っているから貰ってちょうだい。」と、知り合いのお茶の先生に頂いたもの。アスチルベもイカリソウもエノテラもミズヒキも、名前は聞いたが、その時は右から左、茶花とはなんと地味な物よと、庭に興味のない頃は植えっぱなし。

子供が三輪車で走り回っても、相棒が子供たちと野菜畑を作っても、この花たちは庭の隅で生き延びていた。
ホトトギス
台湾ホトトギスを表庭の西寄りに(車庫で西日が遮られる)、ホトトギスを玄関脇のプルーンの木の下に植えたが、別段考えがあってのことではなかった。

夏の終わりから早々咲き始める台湾ホトトギスは、花も小ぶり、近くで見てもかわいらしい。秋遅く咲くホトトギスはその植えられた場所ゆえに、近寄って眺められもせず。花も大きいし、点々もはっきりしているのが遠目でわかったので、なおさら今までマジマジ見る気にならなかった。ホトトギスは白地と知って、ほんとかしらと、デジカメを持って今日やっと確かめに出た。
台湾ホトトギス
半日降り続いた雨は秋雨と言うには暖かすぎた。風も、なまなまと腑抜けている。こんな日は季節の勘が狂う。ホトトギスはミョウガの後ろに隠れるように、ふたつほど開いていた。やはり図鑑で見たとおり、白地に紫の点がくっきりと浮かぶ。台湾の方はこの点が滲んで地色に溶け出したようだ。(写真上がホトトギス、下が台湾ホトトギス)

納得して、ホトトギス撮影は終わり。狂った勘ついでに、庭で春探し。枯葉を無視して新芽探し。あるある、ハーブにも、ルピナスやデルフィニュームにも。茎に恥ずかしそうにしがみ付く新芽、初々しい柔らかな食べちゃいたいような新芽。可愛くて、くすぐりたくなるけど、我慢。

細い針金のような茎はイカリソウ。いつもは茂った葉で見えなかったが、雨で束になった茎が現れた。地際近くの茎に白い芥子粒のような物が付いている。新芽にしては変だ。何かの卵?怖い物見たさで1本引き抜く。芥子粒には足があって茎から生えていた、キノコだ。気持ち悪いを通り越して感動。針金の茎に真っ白な極小キノコ。寄り目になるほどしげしげ見つめている私は、庭で大きくなった「不思議の国のアリス」みたい。
10月19日 木曜日
ピラミッドアジサイとウメモドキどっちかな。晩秋、初冬。朝は初冬で昼は晩秋、晴れて陽だまりなら春。

朝5時15分。まだ暗くて、でも空は深い青。空が湖のように見えて、湖を見ればきっとこの空のような、と思うだろう。それがだんだん明るく軽くなって、太陽が昇るとどこからか靄が現れて、庭をぬらして、ポタポタ雫の音。

夏の朝は肌の表面だけさっと涼しくなる空気だった。今朝は肌を突き抜けて冷たさがしみわたる。これが我慢の限界だろう。これ以上になると、瞬間冷凍されるので部屋着のままでは庭に出られない。

ルコウソウを片付けたいが、種が採れない。茶色くなったので、むしったが中は未熟だったり干からびた種だったり、まともな物がとても少ない。まだ早いのかな、そうかな、去年は今ごろたくさん採れたのに。去年より花は多く咲いたのに、不思議。只今収穫種数24粒。

がっかりしながら、グランドカバーのルコウソウをかき分ける。冷えて硬くなった焼きそばをイヤイヤ突付いている様だ。横には寒くなって元気を取り戻した、シルバーの新芽が綺麗なセラスチューム。つい、目はそちらへ。

こんなかわいそうな終焉の草もあれば、最後まで寵愛のまなこに震える花もある。「これは枯れてんでしょ?汚いなぁ。」花びらを落とそうとしたその手にすかさず愛の鞭がとぶ。「無礼者、触るでない。」の声に反省したんじゃないな、相棒は、呆れて離れていった。

すっかり茶色くなった柏葉アジサイだが、赤銅色の葉にはベストマッチ。誰が切るか。ピラミッドアジサイもウメモドキと目配せしている。やっぱり相棒は大切にすべき、か。(写真がピラミッドアジサイとウメモドキの実)
10月17日 火曜日
バラの支柱あんまり娘がケラケラ笑うものだから、傷つきやすいガーデナーは落ち込んだ。大きな花をつけてメアリーの細い茎がしなう、それがかわいそうだったので、竹で支柱を作った。玄関先の黒竹、こんな役立ち方をするとは、夢にも思わず植えた頃は、この子がまだ母という支柱にいつも寄り添っていた昔。

「竹って言うのが、なーんかねぇ、和洋折衷じゃなーい?」ほう、いつ和洋折衷なんて言葉覚えたんだ?ああ、最近、漢字検定受けてたな。「それに、この上のは何?へーんなの。」・・・・。いつか洋書に載っていた写真の真似よ、なんて言ったら「まねしーまねしー」と囃し立てるぞ、きっと。

真似したくたって、できない事の方が多いもん。欲しい物もほとんど我慢している。たとえば、バラを這わせる石の壁が欲しい。それから、バラのアーチをたくさん並べて突き当たりに古い彫像を置いた100メートルほどの小道も。庭で経済活動する気はないので、果樹園はいらない、でもブナの原生林は欲しい。湖は小さくていい、ボートに乗って一周1時間。夕日が落ちるのを見る為に、岩場はいらないけど砂浜。伊豆の春と京都の秋と九州の冬と、もう少し長く信州の夏を。神様お願い。

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